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江戸幕府,総船印に日の丸を制定(1854)

幕末の1854年(嘉永7年)3月に日米和親条約調印が調印されて,日本船と外国船を区別する旗(国籍標識)が必要になりました.

それまでは各藩がそれぞれの旗を使っていましたが,外国へ行くとなると日本国国籍を表示する旗が必要になります.これを総船印と言います.現代的な表現では「船舶用の国籍標識」ですね.

幕府がつかっていた中黒という白地に黒い横線で良いのではという意見がありましたが,結果的に日の丸となりました.1854年8月4日(嘉永7年7月11日)のことです.

中黒

「大船製造については、異国船に紛れざるよう、日本国総船印は白地日の丸幟相用い候よう仰せいだされ候。かつ、公儀御船は白絹布交の吹き流し中柱へ相立て、帆の儀は白地中黒に仰せ付られ候。」

日の丸が総船印となるまでには様々な議論が交わされました.日の丸の図案は昔からありました.200年も昔から御城米船や銀・銅を運搬する幕府御用船の印になっていましたので,それを手放さなければならないため,反対意見が多かったようです.

また,当時の赤染料は天然色素で褪色しやすく,長い航海で紫外線にされされていると色あせて見すぼらしくなってしまうという理由もありました.

いずれにせよ,この総船印に日の丸が定められたことで後に日の丸が日本国の国旗となりました.

日の丸のデータ

縦横比 2:3 制定日 1870年2月27日(明治3年) 1999年8月13日(平成11年)改

根拠法令 商船規則:明治3年太政官布告第57号 国旗及び国歌に関する法律:平成十一年法律第百二十七号

歴史

1859年(安政6年) 幕府は縦長の幟(正確には四半旗)から横長の旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きをだす.これで日章旗が事実上の「国旗」となります.

1860年(万延元年) 日米修好通商条約の批准書交換で使節団一行はワシントン,ニューヨークを訪問します(咸臨丸でサンフランシスコへその後は陸路で向かいます).その時のパレードに日章旗星条旗が掲げられました.

1862年文久2年) 創設された幕府陸軍も海軍に続き軍旗に日の丸を採用します. また,旧幕府方の彰義隊会津藩(白虎隊など)、奥羽越列藩同盟の一部などは、自分たちの共通の旗として日章旗を掲げて戦いました.一方,薩長を中心とする官軍は「錦の御旗」を掲げました.

1870年2月27日(明治3年1月27日) 商船規則(明治3年太政官布告第57号)にて「御國旗」として規定され、上述の幕府による「御国総標」を継承して日本船の目印として採用されました.

1999年(平成11年) 国旗及び国歌に関する法律で国旗は日の丸,国歌は君が代と正式に定まりました.

1854年頃から始まって150年以上と,長い長い年月を経て国旗と国歌がやっと定まったのはつい最近のことです.感慨深いものがあります.

旗とか国家とかの概念は有って当たり前の様に考えますが,歴史とともに移り変わっていくものだとわかります.

官軍が,日の丸を掲げる旧幕軍を賊軍として戦うというのにはものすごく違和感があります.その後の西南戦争なども考えるとものすごく激しく時代が変わっていったことが分かります.敵味方が次々と入れ替わります.

生活で身の回りにある当たり前のものもどんどん変わってきました.昔ならだれでも持っていたナイフなど,いまでは持っているだけで危険人物扱いされます.公園で木刀で素振りなどしようものなら通報されそうです.

手紙や切符などもペーパーレス化されてきました.そのうちにお札や紙に印刷された写真なども歴史の遺物となってしまうのでしょうね.

今日はこれまで.ではまた.